1956年頃の鎌倉と逗子が舞台です。
早速、この映画の中に出てくる鎌倉を追ってみます。
次は御成通りと由比ガ浜通りの交わる場所です。
津川雅彦と岡田真澄が話しています。
背景には今はない「由比ケ浜銀座」のアーチが見えます。
花屋の「花春」さんは、現在看板などは変わっていますが、建物はほぼ変わっていないように見えます。
左に見える洋装店「チャーム」さんは現在営業されてないようですが建物は残っています。
「大木果実店」と見えますが、現在は『海街Diary』にも登場した青果店の「浜勇」さんになっています。
カメラを切りかえして江ノ電を背景に撮ってます。こういうカットを見ると、撮影時間もないのにちゃんとしてるなぁと変な感心をしたりします。
岡田真澄の住む西洋館は稲村ヶ崎にあった有島生馬さん(画家で有島武郎の弟)の家を借りたそうですが、現在は移築されて残っていません。
太陽族ブームに乗っかろうと日活が短期間で撮らせたといわれています。
この映画を見たトリュフォーがカイエ・デュ・シネマ誌上で絶賛し、その後『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』などヌーヴェルヴァーグの先駆となったとも言われます。その一方で監督の中平康は、ヌーヴェルヴァーグを認めていませんでした。
「あんな青ッぽい、安っぽい、下手くそな駄映画」とけちょんけちょんです。
「幼稚というか稚拙というか、ザラ紙に誤字だらけの同人誌小説を読まされた印象」
(「映画芸術」1960年4月号)
この齟齬は一体何なのか。
松竹大船撮影所で早くから才能を認められていた中平康監督が、時間も予算もなく、ロケが主で、演技は素人同然の俳優たちを使って撮ったため否応なくそうせざるを得なかった中で編み出した、いわば中平康監督にとっては「苦肉」の部分が、トリュフォーやゴダールには生々しく、新しい映画の萌芽に見えたということかも知れません。
この題材にはそれが適していたのでしょう。途中のぎこちない演技は物語をとりあえず動かす為のもので、最後の最後に津川雅彦が見せる怒りと哀しみに取り憑かれた顔さえあればそれで十分な気もします。
蛇足ですが、この頃の岡田真澄は本当に美青年です。ヴィスコンティ監督が注目したという話もわかります。そしてこの映画の登場人物の中では一番大人に思えます。「混血」として幼い頃から受け続けてきた差別やルックス目当ての女に飽き飽きして達観したかのような彼に兄弟は学ぶべきだったのかも知れません。
未見の方は「焼酎ある?」の岡田真澄に注目してください。
0 件のコメント:
コメントを投稿